「李登輝、消えゆくの報。
頭(こうべ)を深く床に伏す。
ありがとうございました」
これ以上、私には言葉がない。
二・二八事件の謝罪
鮮やかに思い浮かぶひとつの光景がある。1995年2月28日、台北新公園で執り行われた二・二八事件記念碑落成式に臨んだ台湾総統(中国国民党主席)李登輝が、犠牲者と家族に対し公式の謝罪を表明した時のニュース番組である。
二・二八事件とは1947年2月28日、かねて台湾に住んでいた住民(本省人)に対し、国共内戦に敗れ逃亡してきた軍人・軍属など(外省人)が引き起こした暴力事件である。李登輝の謝罪は、台湾社会の深部を長らく蝕(むしば)んできた「省籍矛盾」、すなわち本省人と外省人との間の確執を解消へと向かわせる第一歩となった。
二・二八事件以降、台湾では実に38年に及ぶ戒厳令が敷かれ、本省人は中国国民党の圧政により無権利状態のままに置かれた。しかし、戒厳令下にありながらもなお経済発展を続ける台湾には、本省人を含めて多くの中間層が生まれ、そうしてしかるべき諸権利を得ようという意識が澎湃(ほうはい)として沸き起こった。
この事実をまっとうな政治的感覚をもって受け止めた人物が、蒋介石に代わって最高権力者となっていた子息の蒋経国である。蒋経国は本省人エリートの李登輝を抜擢した。李登輝は果敢に、そして巧みに権力の懐に分け入り、民主化への準備を着々進め、民主化への最大の障害「省籍矛盾」を解かんと、総統として、何より国民党主席として、二・二八事件への公的な謝罪へと向かったのである。その光景をDVDで見るたびに私はかすかに涙する。
蒋経国はひそかに、中国国民党は「台湾国民党」に翻身しなければ台湾のこの地で権力を握り続けることは不可能だとみていたのである。そして本省人エリートとして李登輝に白羽の矢を立てたのだが、ここに現代台湾政治史の転換点があった。この転換点を確かなものにした人物が李登輝である。