気がつくと、あなたはローンの支払いのために一生を捧げている
私は現在、80歳。人生の後半に私の国、ウルグアイとは反対に位置する日本という重要な国を知ることができたことを、心から感謝したいと思います。日本人は秩序立てて物事を判断するので、東洋のドイツ人との印象を持ちました。
いま、いろいろな価値観がありますが、もっとも重要なことは「生きている」ことです。生きていれば、これから数多くのチャンスに出会うことができる。これは奇跡のように尊いことです。
若者には2つ選択肢があります。1つは、「生まれたから生きる」という生き方。もう1つは、そこから出発して「自分の人生を自身で方向づける」生き方です。後者は、自分自身で人生を操縦していくということです。
人間には意識があり、感情があります。理性的に考えることも、抽象的に考えることもできる。
つまり、私たちは自分自身で人生の道を築くことができるのです。これは自然が人間に与えてくれた特権です。ほかの動物はそのような能力を持っていません。
私たちは自分の人生をコントロールしなければなりませんが、市場はもはやコントロールできない状態になっています。
その結果、一部の人間が富を占めるようになってしまいました。人類の歴史においてこれほど生産性が高まったことはないのに、分配の仕方が悪いために、大部分の人は恩恵に与ることができず、フラストレーションを抱えています。
もちろん、市場に屈服したまま生きることもできます。グローバル企業のために一生を捧げる人生もあるでしょう。2年ごとに新車に乗りたい、いまよりも大きな家に住みたいと負債を積み重ねて返済に追われる。気がつくと、あなたはローンの支払いのために一生を捧げていたということになるでしょう。
貧しい人とは、「いくらあっても満足しない人」
でもそうして生きて、私のようなリウマチ持ちの老人になった時、何が残るのか。モノを買うこと自体を楽しみにして、自分の人生の時間を浪費してしまう。
あなたが何かモノを買う時、それはおカネで買っているのではありません。モノを買うことは、そのおカネを稼ぐために費やさなければならない時間の一部を支払っているのです。私たちは人生の時間をもっと尊重しなければなりません。時間は重要です。時間は2度と戻ってこないからです。
スーパーマーケットに行けばいろいろなモノを買うことができますが、過ぎ去った人生の時間を買うことはできません。
若い時には愛のために――愛は地上においてもっとも重要なものです――多くの時間が必要です。パートナーや子供がいれば、彼らと愛を交わす時間が必要です。モノは愛をくれません。
みんな、私のことを貧しいといいますが、別に貧しいわけではありません。“質素”なだけです。以前は「austerity」(慎ましい)という言葉を使っていました。最近、「austerity」はヨーロッパで緊縮経済の意味で使われるので、いまは使っていませんが。
貧しい人とは少ししか持っていない人のことではなく、いくらあっても満足しない人のことです。
しかし、私には重要なものさえあれば、十分なのです。
質素に暮らしたほうが、本当にしたいことに時間を使えます。私にとってそれは社会運動ですが、ほかの人にとっては魚釣りをすることかもしれませんし、友人と遊ぶことかもしれません。
自分のしたいことに時間を使うことができる、それが「自由」です。そのためには、必ずしもモノが必要なわけではありません。