日参して熱意を伝える
私は日本からオーストラリアに移住してから36年になります。その間にオーストラリアの全ての州を訪ねており、最後に残っていたのがダーウィンでした。この地に軍艦を引き揚げた日本の会社があったという話は聞いていたので、それを調べるのも目的の一つでした。
図書館などで藤田サルベージについて改めて調べてみると、こんな日本人がいたのかと驚きました。この話は日本ではもちろん、オーストラリアでもダーウィンでこそ知られていますが、たとえばシドニーの大学で生徒や先生に「こういう話を知っていますか」と訊いても、ほとんどの人が知りませんでした。
日豪の懸け橋になったこの歴史的事実を書き残さねばならない……そう思い、取材を開始しました。
藤田銑一郎氏がご存命で、お話を聞くことができました。この話を書きたいと言ったら、「ぜひ松平さんに書いてほしい」と言ってくださって、うれしかったです。
銑一郎氏ご本人もとても大きな方でお優しかったのですが、父・柳吾氏のことを話されている時は、誇らしさのようなものが滲み出ていました。
そして、サルベージ作業の話を聞いていると、その仕事全体の日本人ならではの真面目で無駄のない仕事ぶり、それによる見事な成果などに鳥肌が立つ思いをしました。三十六年住んでいるため、オーストラリア人の仕事ぶりというのはよくわかっているので、当時の人たちがいかに日本人の仕事が奇跡のようだと思ったのか、よくわかります。
取材の過程で苦労したのは、やはり実物を見ていないことでした。お話を聞いて想像をするだけ。藤田サルベージが持っていた写真や資料はすべてオーストラリア政府に寄贈していたため、アーカイブセンターがなかなか見せてくれなかったのです。「たかが物書きに見せるわけがない」という態度でした。
でも、諦めるわけにはいかない。どうしても必要だと、宿泊しているダーウィンのホテルから毎日タクシーで一時間かけて通い、三日目についに向こうが折れました。
「移動だけでそんなにお金を使って大丈夫なの?」と訊かれたので、「今日はハンバーグも食べられない、水だけ!」と返して大笑いされました。熱意が通じて、見せていただけたのかなと思います。
2022年11月に脱稿し、校正に入っていた12月25日に、藤田銑一郎氏の訃報が届きました。ドラフトをお読みいただき、「嬉しそうだった」とご家族の方に教えていただいたのですが、ぜひ本書をお渡ししたかったです。
中国への港賃借は大失敗
1987年にオーストラリアに移住した時は大学で教鞭をとっていたのですが、当時のこちらの大学は生徒が職を得るまでいるだけで、職を得たらすぐにやめてしまう。そうこうしているうちに、生徒がいなくなってしまい、大学を首に(笑)。仕方ないので、自分で塾を始め、教える日々を過ごしていました。
当時はまだ戦争を引きずっていたので、”よそ者”扱いされているのがわかりました。私は幸運にも差別的な扱いはされたことはなかったのですが、周りの日本人に相談をされることはよくありました。
それから40年近く経ち、対日感情は極めてよくなりました。やはり円の強い時代に、日本との貿易が盛んになったことが大きいと思います。
最近では中国がオーストラリアに入り込んでいると言われており、それは実感しています。日本人たちは警戒しても、オーストラリアはもともと移民の国なので受け入れるのが文化ですから、警戒していないのです。
とはいえ、まさに本の舞台となったダーウィン港が2015年に中国に約420億円で99年間賃借する契約を結んでしまったことは、さすがにオーストラリアでも大失敗だと考えています。現在、契約の見直しを進めていますが、はたしてどうなるのか……。
そんななか、私は2006年に体調を崩してしまいました。「死ぬかもしれない」となった時に、何か自分がオーストラリアに生きた証を残したいと思うようになりました。そこで、これまでに携わってきたオーストラリアの教育事情を書きました。
何とか生き延びたので、2015年にはオーストラリアで稲作を始めた侍、高須賀穣のことを書きました。
そして、今回6冊目。
日本で生まれ、日本で育ち、その後、オーストラリアに36年も住んでいる私に何ができるのか。やはり、その二つの国の間で起きたことを調べて書き記し、残していくことではないかと考えたのです。
そして、日本とオーストラリアとの絆がもっともっと強くなっていけば、うれしい限りです。