大きすぎて履けない米軍のブーツ
「そうか、じいちゃんは米軍から支給された制服や制帽を身に着けさせられていたのか……」
実に個人的な感想から始まって恐縮なのだが、アーロン・スキャブランド『日本人と自衛隊―「戦わない軍隊」の歴史と戦後日本のかたち』(原書房)の第一章「警察予備隊と米軍」を読んで、亡き祖父に思いをはせた。筆者(梶原)の母方の祖父は、自衛隊の前身である警察予備隊の一期生だったのだ。
小学生の頃、「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争のことについて聞いてみよう」という夏休みの宿題が出て、祖父に尋ねたところ、十代で旧軍兵士になった祖父の戦争中の思い出といえば「上官にひどく殴られたこと」だったと言って、それ以上、何も教えてはくれなかった。
その祖父が、戦後、警察予備隊に入ったことは知っていた。あらゆる要素において「旧軍の轍は踏まない」と結成されたのが警察予備隊であり、自衛隊だったわけだが、祖父がどんな気持ちで予備隊に入隊したのか、結局聞けずじまいだった。本書を読んで、直接聞くことはかなわなかった当時の情景を、少しだけ想像できるようになったのだ。
本書は戦後、旧軍への反発や憲法との矛盾を抱えながら、自衛隊が日本社会とどのようにかかわってきたかを、アメリカ人学者が多数の証言や資料をもとに描き出している。
警察予備隊の創設経緯については知った気でいたが、本書で初めて、米軍の関与の度合いや、「予備隊隊員は、サイズの合わない米軍の制服や、大きすぎて履けないブーツを支給され、苦労していた」ことを知ったのだ。
少し前まで敵として戦っていたアメリカから「指導」を受けるだけでなく、身に着けるものや武器までも支給された隊員たちの気持ちを考えると、複雑な思いになる。大きすぎて履けないブーツは、日米男児の体格差をつきつけるもので、屈辱を感じたものもいたことが本書では示唆されている。
「そこまでやるか」の自衛隊の献身
2011年の東日本大震災での自衛隊の大規模な災害派遣とその貢献を目の当たりにした、現在の日本社会とは比べ物にならないくらい、警察予備隊、自衛隊の発足当初の社会の姿勢は、冷え冷えとしたものであった。
第二章では、そうした社会に溶け込もうと、自衛隊が「愛される自衛隊」を合言葉に民生支援に乗り出した実態が紹介される。
中でも、自衛隊に対する嫌悪が激しかった北海道に展開した北部方面隊の涙ぐましい努力が紹介されているのだが、それは民生支援というよりも、ほとんど奉仕活動に近いものだ。さっぽろ雪まつりのために、実にトラック5500台分の雪を札幌市内に運ぶことに始まり、初夏には田植えまで自衛官が手伝うことになった。
この「田植え支援」については、本書にも証言者として登場する元陸上幕僚長の冨澤暉さんに、その経験を聞いたことがある。
「当時はたくさんいた農家出身の部下たちは、慣れた手つきですいすいと苗を植えていくんだが、そうでない自分は腰が痛くて遅れを取ってね。農家の女性たちから『将軍さんは先頭を走るんじゃなくて、兵隊さんの後からついていくんだね』なんてからかわれましたよ」
自衛官がこぞって田植えまで手伝ったと聞いた時には「どうしてそこまで」と思ったものだが、そこまでせざるを得なかった事情が、本書では詳しく解説されている。
敗者となった旧軍の影を背負い、「警察予備隊」とあたかも軍隊ではないかのような名称で発足せざるを得ず、その後も憲法違反を問われ続けたことで、「日陰者」「私生児」として扱われてきた自衛隊。
国民の多くは興味すら持たず、一部からは排斥されるべき存在と位置付けられてしまった。ゆえに、国民に理解を求め、地域社会に溶け込むために、「そこまでやるか」と思うような努力を重ねてきたのだ。