万引きと言っても犯罪の現場である。
テレビの映像に見出していたような人情話に浸る空気は、実際の現場には存在しないようだ。もちろん、被害店の向かいの中華料理屋の女将が、自分の店のコスト減のためにサラダ油を万引きし、バレて涙ながらに謝罪する事例などが全くないわけではない。だが、本書を読むと万引き補足の現場には、ただただ殺伐とした、荒涼とした風景が広がっている。
万引きと言うと一般には、先に挙げたような老人の他、ゲーム感覚や、小遣い惜しさで犯行に及ぶ中高生などのイメージだと思う。本書にもこうした犯人たちは登場するが、より組織的・計画的なケースも紹介されている。
驚いたのはベトナム人万引き団のケース。もはや万引きというより強盗だが、未精算の商品を車に積み込む犯人らを追った柔道経験者の屈強な男性万引きGメンを車に押し込んで連れ去り、途中で道に捨てて逃げ去ったというのだから恐ろしい。とても「人情派おばちゃん万引きGメン」には太刀打ちできそうにない。時に命がけの仕事なのだ。
さらに絶句したのは、居酒屋やスナックの経営者や店長が、店で出す食料品を万引きによって「調達」しているケースが少なくなかったことだ。コロナ禍によってこうしたケースは増加中だという。盗んだ商品を客に出すとき、彼らの心理とは一体いかなる状態なのだろうか。
また、店側から「万引き犯である」と認識されながら、何度も同じ店にやってくる者もいる。「銀座のJUJU」「8番の女」などとあだ名をつけられているとあり、思わず笑ってしまう。もちろん、被害を受けた店は笑い事では済まない。
近隣店でも万引きを行う「はしご」犯や、会計しないまま弁当を店のトイレに持ち込んで食べる者、自分が働いている店の商品を盗んでいく従業員など、あっけにとられる事例ばかり飛び出してくる。
映画『万引き家族』が話題になった時、一部では「こんなあり得ない事例を、日本の一般的な出来事であるかのように描くのはおかしい」という声もあったが、幼子にものを盗ませておいて、発覚すると「子供のやったことですから…」で言い逃れしようとする親も少なくはないようだ。なにより、本書の筆者である伊東ゆう氏は、本映画の監修に加わっている。
「一体、日本社会はどうなっているのか」と頭を抱えざるを得ないが、これが現実なのだ。
もしかしたら自分も万引きをしてしまうかも……
さて、読むうちに万引きGメンへのほのかな憧れに冷や水をかけられた格好だが、もう一つ、認識が変わった点がある。それは、「もしや自分もいつか万引きをする側になってしまうのではないか」という恐れを抱いたことだ。
じりじりと引き上げられる年金支給開始年齢。それも、たいした金額がもらえないことはほぼ決定事項である。貯金はしてはいても、何歳まで生きるか分からない。
下手に長生きをして、頼れる家族もいなくなっていたら。明日の食事どころか、今抱えている空腹をどうにもできないでいる時、スーパーを訪れる。揚げ物のいいにおいがする。きっと売れ残り、廃棄が出るだろう。それなら一人分くらい、頂いたって罰は当たらないのでは? 私をこんな状態に至らしめたのは、社会にも問題あるのだから……。
年を取ると、おそらく世界のとらえ方が雑になって行く。認知症にならずとも、自分に都合よく考えるようになっていく。そのことを思うと、「何歳になっても自分は絶対に万引きには手を染めない」とは言いきれない、という気がしてくるのだ。
そしてもう一つ。本書にある万引き犯の言い分を読んでいると、そこには「ちょっとくらい、いいじゃない」という感情に加え、どこかで社会に対する被害者意識を持っているフシさえうかがえる。そのうえ、「(万引きを)うまくやれた」時の快感が、ある種の生活の張りになっている感じさえする。何度も犯行を繰り返す万引き犯が多いのは、生活苦だけではない「何か」もありそうだ。
「うまくやってやろう」という出来心や、「悪いのは私ではなく社会の方」という被害者意識から始まって、ギリギリのスリルを味わう、それによって実利を得るといった快感も、人を万引きに向かわせるのだろう。
考えてみれば、万引きGメンへの憧れのどこかに、「やるかやられるか、ギリギリの局面に立ち会ってみたい」という感情があったのも事実だ。感情の出どころは一緒でも、ダークサイドに落ちれば万引き犯になる。
万引きという暗くて深い「穴」は日常のすぐ隣で口を開けて待っているのだ。
ライター・編集者。1980年埼玉県生まれ。月刊『WiLL』、月刊『Hanada』編集部を経てフリー。雑誌、ウェブでインタビュー記事などの取材・執筆のほか、書籍の編集・構成などを手掛ける。