このような悪しき「一族中心主義」と並んで、実は多くの中国人を動かすのにもう一つの伝統の行動原理がある。私はそれを「実利中心主義」と呼んでいる。要するに大半の中国人は人との付き合い方を決める際、自分と自分の家族や一族にとっての「実利」を最大の基準にして、それに基づいて行動するのである。
ビジネスの世界で大事にされている契約遵守の話を例に出してみよう。中国とのビジネスの現場では、日本企業の担当者やビジネスマンの口から「中国企業、中国人はちゃんと契約を守らない」との苦情がよく聞かれる。このような苦情が数多く上がってくるのには当然、中国企業や中国人による契約違反が現場ではよく起きてくる、という嘆かわしい実態があるからであろう。しかしよく考えてみれば、中国企業や中国人は別に何時でもどこでも誰でも契約を破っているわけではない。もしそうであれば、中国とのビジネスはそもそも成り立たない。実際、多くの日本企業が日常的に中国企業や中国のビジネスマンと莫大な取引をしているから、日中間で交わされている契約の多くは普段は守られているとみてよい。
ならば、ここに一つ重要な問題が出てくる。中国企業あるいは中国人は、一体どういう時に契約を守り、どういう時に契約を破るのか、という問題である。この問題に対する答えは実に簡単である。つまり中国企業と中国人は、相手との契約を守ったほうが自分たちの利得になると判断した時はそれをきちんと守り、契約を破ったほうが利得になると思った時はいとも簡単に破る、ということである。
つまり中国人一般には、「契約自体はまず守るべきである」 「契約は利得とは関係なく破ってはならない」という精神も観念もない。彼らはほとんどの場合、利得という判断基準でその都度決めるのである。
平気な顔をして嘘をつくワケ
嘘をつくことに関しても同じである。日本ではよく、「中国人はいつも嘘をつく」という話が聞かれるが、ある意味ではそれは事実である。中国出身者である筆者自身も、かつての同胞たちから嘘をつかれたことは山ほどある。しかしだからと言って、中国人は別に生まれつきの嘘つきであって何時でもどこでも誰でも嘘をついているわけではない。契約遵守の話と同様で、中国人は普通、利得があるかどうかで嘘をつくかどうかを判断している。嘘をつかないほうが利益になるのなら、あるいは嘘をついても利得にならないなら、彼らはあえて嘘をつくことはしないが、嘘をついたほうが利得になると判断した時、大半の中国人は何の後ろめたさもなく平気な顔をして嘘をつくのである。
絶対的な道徳倫理の欠如
こうしてみると分かるように、中国人の判断基準は利得があるかどうかであって、それはすなわち、中国社会の行動原理の一つである「実利中心主義」の最大のポイントである。
ここで非常に重要なのは、「契約は守るべし」 「嘘をついてはならない」というような絶対的な道徳倫理が中国社会には徹底的に欠如しているということである。中国人にとって、絶対の善もなければ絶対の悪もない。全ては利得次第であって実利が中心なのである。
このような実利中心の行動原理は一体どこから生まれたのかというと、おそらく、中国社会の古来からの宗教観念と大いに関係があろう。
西洋の場合、神様によって「絶対の善」が決められているキリスト教の善悪観がある。日本の場合は神道の重んじる「清き明き心」が社会に浸透している。大半の日本人は嘘をつくことや契約を破ることを「汚いこと」だと思い、それを本心からやりたくはないと考えるだろう。
しかし中国の場合、内面から人々の心と行動を規制するような「絶対の善」や「神様の命令」を唱える宗教もなければ、「心の綺麗さ」を大事にする文化もない。だから人間たちは昔からやりたい放題、自分とその一族にとっての利得さえあれば、顔色一つ変えることなく契約を破り、そして嘘を散々とつくのである。
中国政府や中国企業や中国人と交渉をするときには「実利中心主義」を肝に銘じて気をつけたほうがよい。あるいは交渉を持たなくて済むのであれば、最初からかかわらないほうがよい、ということである。(初出:月刊『Hanada』2021年3月号)