危機管理の専門家が「安倍事件」を分析
テロ対策や安全保障の枠組みの構築に力を入れてきた安倍元総理が、銃撃を受けて命を落とし「テロの被害者」となった。これは実に皮肉なめぐりあわせであった。
今回取り上げる『政治と暴力――安倍晋三銃撃事件とテロリズム』(PHP新書)の筆者は、日大危機管理学部教授の福田充氏で、テロ対策から災害対応、ミサイル対応までを幅広くカバーする「危機管理」を研究してきた。
2006年に成立した第一次安倍政権下でも危機管理に関する政策の検討に携わって以降、現在まで「国民保護」の観点からの施策を一歩ずつ進めてきた矢先のこの事件だったという。
ゆえに安倍元総理銃撃事件に対する思いも深い。
「おわりに」に、〈テロ対策など危機管理の政策にかかわってきた立場として、今回の事件を未然に防げなかったことは、慙愧に堪えない〉と、その苦しい心情を綴っている。
安倍元総理という要人が狙われたこと、犯人の動機が宗教絡みだったことなどによるインパクトに、つい見失いがちになるが、この事件は「一国民が白昼の天下の公道で、多くの聴衆の前で銃撃により命を落とした」事件でもある。
本書を読んで、改めて事件の本質を考えさせられた。要人警護はもちろんだが、国民保護の観点からも、この事件は「失敗」事例となったのである。
この事件は「テロ」だったのか
事件直後から、「この事件はテロなのか否か」も論争になっていた。
テロとは、一般的には「事件を起こすことで政治制度の変革を企図するもの」とされる。安倍元総理を標的とした今回の事件は、犯人である山上の統一教会に対する個人的な恨みの矛先が、さまざまな要因の結果、安倍元総理に向いただけの、とばっちりに近いもののようにも思える。
統一教会との関係があったとしても、殺されていい理由にはならない。ゆえに「テロではない」という意見もあったのだが、本書では「テロであるか否かは、犯人の動機ではなく、事件の結果、どのような社会的・政治的インパクトが生じたか」による、との現代テロリズム研究の考え方を紹介する。
この考え方に基づけば、やはり今回の事件は「テロ」もしくは「テロリズム的」だと解釈するほかない。結局のところ個人的怨恨に基づく事件を「テロリズム」に分類させるのは犯人ではなく社会の側だからだ。
山上の減刑を求める署名が集められ、現金を含む差し入れが山上のもとに寄せられ、山上を主人公とする映画まで公開されるという現在。こうした信じがたい現象こそが、この事件を「テロリズム的なもの」になさしめているのだ。