後悔は、……ないですね。あの時間は、本当に楽しかった。でも……だから私は結婚できなかったんだろうな、とは思います。結婚や出産や子育てに費やす金額や時間を、まるまる『推し活』に使っていたわけですから。別に後悔はないですけど、疑問は常にありました。いつ終わるんだろう、この生活は……って。
推している間は、ライブへ行く、ファンイベントに参加するなど楽しい出来事が目白押しだ。「推し」の全てを見逃すまいと、地方公演まですべて参加してこそ「推し」への愛の表現だ、との姿勢も、本書の体験談からは垣間見える。
単にコンテンツとしてイベントを楽しんでいるのではない。「推しに会う」こと自体が人生の主軸となり、仕事や生活も主軸に合わせて展開していくようになる。まさに「人生を賭ける」「身を投じる」との表現がふさわしいほどなのだ。
消費と宗教の悪魔合体
もちろん本書で取り上げられている事例は「推し活」の中でも「病」に達するほどの事例だが、元来、「推し活」というのは一過性のブームに乗った軽いもの、「今はこの人に注目している」といった程度のものではなく、かなり熱量が高いものを指すのではないか。
第一章に登場する51歳の男性は、AKB48の推しのために計3000万円余りを費やし、マンションを売った資金も惜しげもなく投入した。
そこには「推しのために」という動機もさることながら、それだけの費用を払う際に「脳汁が出るから」と語ってもいる。脳汁とはドーパミンのことだが、それだけの大枚をはたくと、快感や快楽につながるということなのだろう。
著者の加山氏も買い物依存症との類似性を指摘しているように、ほとんど中毒症状や依存症に近いのではないかと思ってしまうが、そこまでする理由を男性本人は「(推しとの出会いに)運命を感じてしまったからだ」という。
お金と体力がなければできない活動だが、「運命」や「推しのため」という大義があると、人は多大なるコストを払うことも厭わなくなるのだろう。
加山氏は推しをめぐる消費サイクル、商業構造のあり方に疑問を呈すとともに、「推し活」について語る人々の言葉が「お布施」「聖地巡礼」など宗教用語であることにも注目している。消費サイクルと、「私にはこの神=推ししかいない」という宗教性――この観点は本来の意味での「推し活」を定義する上で欠かせないものと言えるだろう。

