病を得た安倍晋三首相は13年前、崩れ落ちるように政権の座から去った。だが現在の首相は見違えるようだ。病を抱えながらも強く立ち続けている。辞任に先立って、予見し得る日本国の危機に対する手も講じていた。実力者として今後の日本を睥睨(へいげい)するかのような頼もしさが窺(うかが)える。首相は退いても自民党の中心軸であり続けるだろう。
退任後への見事な目配り
辞任表明当日の8月28日には、目下の最大懸案である今冬の新型コロナウイルス及びインフルエンザの流行に備えて、全国民を対象としたワクチン確保と高齢者や医療従事者への優先供給制度を正式決定した。もうひとつの眼前の危機、北朝鮮及び中国による核ミサイル攻撃に備える枠組みも整えた。専守防衛を夢見るパシフィズムに浸ってきた日本国では、先制攻撃の概念は危険視されてきた。安倍首相はこの非常識を打ち破り、対日攻撃の動きを察知した段階で敵基地攻撃を可能とする方向へと、舵を切った。
日本国と国民を守るのは日本国である。この当然のことを、安倍首相は言葉ではなく、政策で実現し続けた。祖父、岸信介と同じく、安倍首相は世論の受けが悪くとも国益に基づいて立法し続けた。支持率が下がっても怯(ひるま)ずに、秘密情報保護法や集団的自衛権の一部行使を可能とする平和安全法制をはじめ、国益に基づく決定を重ねた。憲法改正も唱え続けて、決してその旗を降ろさない。
国際社会においても首相は果敢に提言した。最も警戒すべき中国の脅威に備えてインド太平洋戦略を打ち出した。日米豪印の安全保障の協力体制も作った。経済においてはトランプ米政権の離脱を乗り超えて11カ国による環太平洋経済連携協定(TPP)をまとめ、欧州連合(EU)との経済連携協定も具現化した。
もう一度出番が来る
何より首相は日本国民の心に訴えた。祖国に誇りを持とう、と。人間も国家も歴史に学ぶのは当然だが、そのことは戦前の日本国の全面否定とイコールではない。戦後70年談話で首相はこの至極常識的なことに言及し、日本の未来世代が歴史について謝り続けるような状態に終止符を打つと宣言した。反省すべき点は反省しながらも、日本の歴史を前向きに評価したのである。
さらに、拉致問題を政治家の責務を象徴する課題と位置づけ、拉致被害者の奪還こそ国家の当然の責務であることをその行動で示した。
安倍首相は間もなく首相の座を後任に譲る。日本国も国際社会も、首相がどれほど重要で大きな役割を果たしたかを、首相が去った後になって改めて気づくことだろう。だから強調したい。安倍首相はこの8年間、獅子奮迅の働きをした。そのことに国民として心から感謝し、お礼を言いたい。そして信じている。治療と休養の後に健康を取り戻した首相には、必ず三たび出番があると。(2020.09.01国家基本問題研究所「今週の直言」より転載)