玉城デニー知事当選はアベノミクスの恩恵|八幡和郎

玉城デニー知事当選はアベノミクスの恩恵|八幡和郎

翁長雄志前知事の死去に伴う沖縄県知事選挙は、翁長氏の後継候補だった玉城デニー(前代議士)が、自民・公明・維新などが推す佐喜眞淳(前宜野湾市長)を破って当選した。 玉城氏が55パーセントで佐喜眞氏とはそれなりの差ともいえるが、選挙戦の初めの頃は65パーセントと35パーセントといわれていたから、当初の劣勢をよく挽回したが、逆転するには時間が足りなかったというべきだ。


佐喜眞淳氏の敗因

翁長雄志前知事の死去に伴う沖縄県知事選挙は、翁長氏の後継候補だった玉城デニー(前代議士)が、自民・公明・維新などが推す佐喜眞淳(前宜野湾市長)を破って当選した。

玉城氏が55パーセントで佐喜眞氏とはそれなりの差ともいえるが、選挙戦の初めの頃は65パーセントと35パーセントといわれていたから、当初の劣勢をよく挽回したが、逆転するには時間が足りなかったというべきだ。

私はかつて、沖縄開発庁沖縄総合事務局の通商産業部(現経済産業部)に在勤していたことがある(1985~87年)。沖縄では九州とか東北とかブロックごとにある各省庁の出先を総合事務局としてまとめており、その次席だった。そのポストの初代は堺屋太一氏である。

その後も沖縄には興味を持ち続け、2千円札に守礼門の図柄が採用されたときには、「守礼」の意味が「礼儀正しい」でなく、「中国の皇帝に忠実」という由来であると糾弾して反対運動をしたこともあるし、ヤマト(沖縄では日本本土をこう呼ぶ)と沖縄(琉球訛りではウチナーと読む)の関係をどうしたら改善できるか、提言もしてきた。

今回も、『誤解だらけの沖縄と領土問題』(イースト新書)を、翁長知事逝去がなかった場合の知事選挙に先だって刊行するつもりだった(結果的には、投票日の直後になった)。

ただ、翁長氏の死の直後から選挙戦中にかけて何度か現地取材に行き、ネット・メディアなどを通じて集中的に深層に切り込んだ解説記事を書き、それなりに影響を与えたと評価していただいている。

本記事では、翁長雄志知事とはいかなる人物だったのか、保守サイドから見た選挙戦の真の敗因は何か、中国の脅威が迫り来るなかでこれからのヤマトと沖縄の関係はどうあるべきかについて総括してみたい。

本土のマスコミでは、保守陣営の佐喜眞氏の敗因を、米海兵隊普天間基地の名護市辺野古への移設反対とか安倍政権への批判に求めているが、それは間違っている。

同時に行われた地方選挙のうち、佐喜眞氏の後任を争った宜野湾市長選挙では危なげなく佐喜眞氏の後継候補の勝利だったし、県会議員補欠選挙も1勝1敗だった。1月の名護市長選挙でも保守系新人が現職を破って当選しており、辺野古移転に沖縄の人が本気で反対しているかどうかすら微妙なのである。

おいおい明らかにするが、沖縄県民は、基地縮小になる話なら、実現性が乏しいとか、沖縄経済にとってはむしろマイナスになったとしても賛成しないと気が済まないことがたくさんある。それは、不合理と受け取られるかもしれないが、政府も本土の保守サイドも沖縄の人々の苦しい心情を理解してあげないといけないと思う。

結論からいうと、佐喜眞氏の敗因を分析すると、だいたい以下のようなことに集約できる。

①翁長雄志前知事の弔い合戦ムードを克服できなかった。

②玉城デニーの格好良さが女性票・無党派層で圧倒的な強みをみせた。

③アベノミクスの恩恵で沖縄経済は絶好調で経済が論点にならなかった。

以上のことを明らかにするために、まずは簡単に本土復帰前後からの沖縄の政治史を概説し、あわせて翁長雄志という政治家がいかなる人物だったかを明らかにしたい。

戦後沖縄政治の歩み

沖縄が本土に復帰したとき、初代知事には公選首席だった革新の屋良朝苗(1972年)が選ばれた。二代目はその後継者の平良幸市(1976年)だったが、現職中に体調不良で辞職し、三代目に保守の西銘順治(1978年)が就任した。田中派の政治家だった。

しかし、息子の衆議院出馬で西銘への批判が高まり、革新の大田昌秀(1990年)が当選した。その後、経済不振を背景に、稲嶺惠一(1998年)、仲井眞弘多(2006年)と保守知事が続いた。

この大田から稲嶺にかけての時期、野中広務官房長官らが融和路線を展開し、市街地に近く危険とされた普天間基地を辺野古へ移設することで、一応の了解もできた。だが、鳩山首相が「最低でも県外」といったん方針転換してのちに撤回したことで県内では反対が優勢となり、仲井眞は苦悩した。

これをチャンスとみたのが、知事の座を狙う翁長雄志那覇市長で、もともと保守政治家でありながら革新と組んで辺野古反対をスローガンに知事となり、政府との関係は泥沼化したというのが、これまでの経緯である。

翁長氏の父親である翁長助静は、那覇中心部と王城の地だった首里の中間にあった真和志市の市長や立法院議員を務めた(首里も真和志も、のちに那覇市に編入された)。兄の助裕も西銘知事の下で副知事を務め、大田知事の対抗馬として知事選に出馬したことがある。

翁長雄志は法政大学を卒業したのち、家業の工務店の手伝いをしていたが、1985年に市会議員、1992年に県会議員となり、自民党の戦闘的な議員として大田知事に対峙し、辺野古移転の最も積極的な推進派でもあった。

稲嶺知事誕生にあたっては、公明党を革新支持から好意的な中立に移すなど最大の功労者であった。2000年には那覇市長となり、稲嶺の後継候補だったが、選挙の年に胃がんの手術をしたので見送った。

一方、那覇市長を務めるうちに党派色を徐々に弱め、とくに政府が歴史教科書の検定で「(沖縄戦では)なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」という記述を「なかには集団自決に追い込まれた人もいた」と書き換えたことに抗議する保革共闘の県民集会で共同代表を引き受けたあたりから、保革を超えたのちのオール沖縄路線に近づいていた。

そして、仲井眞が再選された2010年の知事選挙では仲井眞は玉虫だったのに対し、選挙責任者だった翁長が辺野古移転に否定的なニュアンスを独断で打ち出し、溝が深まった。選挙が終わると、仲井眞は予定地の海面埋め立てを認可して、あとは国のお手並み拝見といった方針をとった。これに怒ったのが翁長で、対立が決定的になった。

そして2014年の知事選挙では、沖縄社会大衆党・社民党・共産党、生活の党、それに保守派の新風会は翁長雄志を推し、仲井眞に対抗した。だが、翁長は「県民の反対が8割超あり、地元の理解の得られない移設案を実現することは、事実上不可能である」と言ったかと思うと、「我々が反対しても国の方針は変えられない」 「基地に反対することでより多くの振興策が取れる」というような発言もした。

翁長の移転反対はどこまで真剣なのかよく分からず、民主党の喜納昌吉が移設反対を明瞭にして立候補したし、大田元知事は翁長への不信感から、野田内閣の閣僚だったこともある下地幹郎(現維新代議士)を支援したほどだ。

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